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航海日誌

「運命を開く」

2024/06/04

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

表題の「運命を開く」とは、私たちの人生の途上に到来する大きな環境の変化にどう対処するかということである。それには運命というものをどう捉えるかが大きな要素になる。

運命は人間の意志にかかわりなく、偶然に巡ってくる吉凶禍福の出来事であって、人知の及ばぬ大きな力が働いていることをまず念頭におかねばならない。多くの人はそれらを含めて、運命を「決められた人生のコース」で動かすことができないと思っている。

しかし、私は運命とは宿命のように決まったものではなく、その受け止め方、対処の仕方によって変えられるものだと思っている。ニッコロ・マキャヴェッリは「運命は我々の行為の半分を支配し、他の半分は我々自身に委ねる」と述べている。したがって、私たちは修養によって運命を限りなく創造し得るものといえる。そのように断言できるのは、その運命に出逢う機会をつくったのが自分だからだ。

では、運命をどう受け止め、いかに対処すればいいのだろうか。運命は常に想定外であり、不幸や災難に遭うと「どうして私だけがこんな目に遭わなければならないのか」と運命を呪うだろう。だが、与えられた運命をまず受け入れ、冷静に対処したほうがどれだけ賢明かしれない。運命は、単に素材を与えるだけで、それを私たちの対処の仕方によって、プラスにもマイナスにもできる。ミシェル・ド・モンテーニュは『随想録』に「運命は我らを幸福にも不幸にもしない。ただ、その材料と種子を提供するだけである」と記している。運命を自分の支配下に置くなら、つくり変えるのは容易いという。

京都大学名誉教授の西田幾多郎も「環境は人を変えるが、人も環境を変える」とその著に述べている。この「環境」を「運命」に置き換えてみると、より納得できる。好ましくない運命、避けたいと思う運命ほど貴重な教訓を含んでおり、好ましい運命には、失うものが多いのも事実である。自分に降りかかった不運を呪う気持ちを捨て、身に起こるすべての出来事には必ず意味が含まれており、自分に必要だから与えられたと受け取るならば、人間として大きく成長できるのではないか。運命には無意味なものは何一つないのだと確信できれば、挫折も失敗も病気もすべてプラスにできる。

ゆえに運命には「いい運命も悪い運命」もない。人生には「幸運」や「不運」に見えるけれども、「人間万事塞翁が馬」の例えのように、幸運の裏には災いの種が潜んでいるし、不運と思われる中に幸運の種が隠されている。誰でも生きている限り、悩んだりつまずいたりする、良いことずくめのほうが不自然なのである。物事はもめごとなしに運ぶことは稀で、つまずきながら発展していくものだといっても過言ではない。発展には同時に大きな苦しみが伴うものと考えしっかり引き受けた時、初めてその中に潜んでいる喜びの種が分かる。

不運を避けてはならないのは、逃げれば逃げるほど苦しみが増し、成長もあり得ないからだ。「よし引き受けてやるぞ」という気構えができると、不思議に、それまでの苦悩が半減すると同時に、問題も解決していくことを、私はたびたび経験している。人間は常に何らかの問題を抱えていて、成長しようとすれば必ず悩みや苦しみにぶつかる。それが人生なのだと割り切れば、どんな不運に遭っても引き受けていくことができる。天が私たちをより強く、より素晴らしい人格の持ち主にするために、与えてくれた試練だと感謝できるようになる。

そうなれば、大したものだ。我が身にまつわる出来事はすべて必要なのだと受け取れるようになり、全てが成長の糧となる。幸運を求め、不運を避ける必要がなくなる。大変生意気であるが、南方の戦場で、幾度となく死と隣り合わせの運命に遭いながら生き残れた体験から述べた。自分が宇宙の意志を帯びた魂の存在であることに気づかされ、生涯を魂主導の生き方で歩んできた。

私の健康・長寿と生きがいに充ちた日々の本を正せば、海軍に志願入隊した1年間の凄まじい鍛錬と3年余の戦場での体験が土台になっている。むべなるかな。自分の意志で決めたことが、素晴らしい運命をつくったのである。もし、それがなければ、今の私はあり得ない。運命は自分で開くものだといえる。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘元顧問談(2024年4月)より』

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